●金剛般若波羅蜜経(1)(2009.7.21)
第1 法要会が開かれた由来
このように私が聞いたのです。
ある時、お釈迦様が舎衛国(シュラーバスティー:現在のサヘート・マヘート。仏教八大聖地の一つ)にある祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん:祇園精舎)で大比丘たち1250人と一緒にいらっしゃいました。
その時、世尊様は托鉢をされる時間になったので、袈裟をお召しになり、鉢をお持ちになって、舎衛城(しゃえいじょう)に入り順番にご飯を乞われました。そしてもとの場所に戻って、供養を終えた後、袈裟と鉢を片付けられ、足を洗われて、次に席をつくり、座られました。
第2 善現(ソンヒョン)が説法を求めた
その時、長老の須菩提(スボダイ:お釈迦様の弟子の一人)が大衆の中にいらっしゃったのですが、すぐに座席から立ち上がって、上着を右側の肩にかけ、右の膝を地面に跪き、合掌して拝みながらお釈迦様へ申し上げました。
「稀有なことでございます。如来様はあらゆる菩薩たちをよく見守ってくださり、あらゆる菩薩たちによく教えていらっしゃいます。
世尊様よ、善の男と善の女で阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだい:悟り)をおこす人は悟りの心をどのようにとどめ、煩悩の心をどんなふうに克服することになるのでしょうか。」
お釈迦様は言われました。
「立派だ、立派であるな。須菩提よ、お前の言葉の通り、如来があらゆる菩薩をよく見守り、しっかりと教えているのだ。お前はこれからしっかりと聞き、そしてもちろんお前たちのために説法をしよう。
善の男、善の女で阿耨多羅三藐三菩提心をおこした人がいれば、当然悟りの心をどのようにとどめ、その煩悩の心をどのように克服することになるのか、ということだね」
「そうなのです。世尊様よ、願わくば教えてください。」
第3 大乗の正しい宗派
お釈迦様は須菩提に言われました。
「あらゆる菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ:世の中の苦しい人々を助けてあげる人)はもちろんこのようにその煩悩の心を克服していったのだ。おおよそあるところ、あらゆる生命たちがその種類の中で卵として現れるもの、母の胎内として現れるもの、湿気として現れるもの、火として現れるもの、見ることができるもの、見ることができないもの、考えのあるもの、考えのないもの、考えがあるようでなく、ないようでないものについて私が全て教えて、解脱の涅槃(無餘涅槃むよねはん:何もない世界のこと )に至るように済度しよう。」
とおっしゃいました。
「このようにして限りなくたくさんの生命たちを全て済度したが、実にひとつも済度することはなかったのだ。
なぜなら須菩提よ、菩薩の私という考え(我相)、他人という考え(人相)、あらゆる生命たちという考え(衆生相)、長い生きするという考え(寿者相)があるならば、これはすなわち菩薩ではないからなのだ。」
第4 とどまることのない妙行
「さらにまた須菩提よ、菩薩はもちろんどのような説法に対して、とどまることのない布施をするので、いわゆる目に見えることにとどまらずに布施をすることで、音やにおい、味、触感とあらゆる説法にこだわらないで、布施をしなければならないのだ。
須菩提よ、もちろん菩薩がこのように布施をして、見えるもの(姿)にこだわらなければ、なぜかその福徳は限りないこととして数えることができないほどあるのだ。」
「須菩提よ、お前はどのような考えであろうか?東側の虚空について考えれば、全てをおしはかって知ることができるだろうか。」
「できません。世尊様よ。」
「須菩提よ、南西北の方角の中で四維(南東、南西、北東、北西の方位)と上と下の虚空を十分に考えることによっておしはかり、理解することができるだろうか。」
「できません。世尊様よ。」
「須菩提よ、菩薩が見えるもの(姿)にこだわらずに布施をした福徳についても、さらにいえばこんなふうな考えによってはかり知れないものがたくさんあるのだ。須菩提よ、菩薩がただ当たり前のように教えたことをその通りに実行することが間違いないのだ。」
第5 頼もしい真理を見るのだ
「須菩提よ、お前はどのように考えているだろうか。肉体のある姿として如来を見ることはできるだろうか。」
「いいえ。世尊様よ、肉体の姿としては如来を見ることはできません。なぜならば、如来様の身体といわれるものは身体ではないからです」お釈迦様は須菩提に言われました。
「おおよそこの世にあることであらゆる姿(見えるもの)は、これ全て虚妄なので、もしあらゆる姿が真実の姿ではないことがわかれば、すぐに如来を理解することになるのだ。」
第6 末世の正しい信心は稀有である
須菩提がお釈迦様に申し上げました。
「世尊様よ、ある人がこのように言われ、この経典の一句を聞いて信頼できる信心をおこすことができるのでしょうか。」
お釈迦様は須菩提へ言われました。
「その言葉は言ってはならない。如来が滅度(肉体として亡くなる事)してから二千五百年後でも戒を受けて過ごし、福を磨いている者がいて、このような言葉と一句に信心をよくおこし、このことを真実として思っているのだ。
もちろん知りなさい。この人は一人の仏様や二人の仏様、三、四、五人の仏様だけに対して善良な心の素質(善根)をしっかりともっているだけでなく、すでに限りなく千万如来さまの場所で、尊い心の素質をしっかりともった人なので、この金剛般若心経を読んで聞けば、少しの考えで神々しい信仰心をおこすことになるのだ。
須菩提よ、如来はこのあらゆる生命たちがこのようにかぎりない福徳を得ることができることをすべて知っていて、すべてお見通しなのだ。なぜそうなるのかというと、このあらゆる生命たちは<私という考え>(我相)・<他人という考え>(人相)・<生命たち(衆生)という考え>(衆生相)・<長生きするという考え>(寿者相)を二度ともたないならば、「真理という考え(法相)」もなく、「間違った考え」もないからなのだ。
なぜならば、このあらゆる生命たちが、もし心で感じるようなとある姿に執着して縛られるならば、それは同時に<私という考え>・<他人という考え>・<生命たちという考え>・<長生きするという考え>に執着することになるのだ。
なぜならば、もし「真理という考え」をもてば、それは同時に<私という考え>・<他人という考え>・<生命たちという考え>・<長生きするという考え>にこだわるようになるからなのだ。そして「間違った考え」をもてば、それは同時に<私という考え>・<他人という考え>・<生命たちという考え>・<長生きするという考え>にこだわる事になるからなのだ。
そのために、正しい真理(正法)を実行することもなく、間違った考えを実行することもないのだ。だからこそ、仏様がいつも言われることで、『お前たち比丘は私が言うところの説法がいかだのようなものだと理解しなさい』と言われたのだ。真理という考えもむしろ置き忘れていった方がいいくらいなので、ましてや間違った考えも置き忘れたほうがよいのだ。」
第7 得ることも説くこともない
「須菩提よ、お前はどのような考えだろうか。如来が阿耨多羅三藐三菩提を得たのだろうか。または如来が話すところの法というのはあるのだろうか。」
須菩提が言いました。
「私が知っている如来がお話される意味は決められた真理があって、そのことを阿耨多羅三藐三菩提として言われる事はなく、さらに決められた内容のない真理を如来がお話してくださったということなのです。
なぜかといえば、如来が説法した真理はもっていることもできず、話すこともできず、真理もなく、真理でないこともないからなのです。
なぜそうなのかと言えば、あらゆる全ての解脱した賢人や聖人は、相手の世界を超えた無為の絶大法(はっきりとした法)がある中で、はっきりとした区別があるからなのです。」
第8 あらゆることの真理から出てくる
「須菩提よ、お前はどのように考えるのだろうか。たとえある人が三千大千世界にいっぱいの七宝を持って、あまねく布施をしたならば、この人が得る福徳はどれくらい多くあるだろうか。」
須菩提が言われた。
「とてもたくさんあるでしょう。世尊様よ、なぜならば、この福徳は本質的な心の福徳性ではないからなので、そのため、如来様は福徳がたくさんだと言われました。」
「万一ある人がこの経典の中で4つの句だけでも貰い受けて、人のために話したならば、その福が他の福徳よりももっと秀でている事になるのだ。
なぜならば、須菩提よ、あらゆる仏様の阿耨多羅三藐三菩提がみなこの経典から始まっているからなのだ。須菩提よ、いわゆる仏法とはすなわち仏法ではないのだ。
(つづく)
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