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●金剛般若波羅蜜経(3)(2009.7.23)

第14 相から離れる寂滅

 その時須菩提がこの経典の話を聞いてその意味を深く理解したので、涙を流し、悲しく泣きながら、お釈迦様に言われました。

「本当に稀有なことでございます。世尊様よ、仏様はこのように経典をとても深くお話されたので、私が昔前世から来ながら、磨いて授かったところの明るい智慧の目ではかつてこのような経典を授かって聞いたことはありませんでした。

 世尊様よ、もしある人がこの経典を授かって聞いて、信心が清らかになれば、すぐさま信頼できる真理の境地(実相)となるので、この人は当然、一番稀有な功徳を成就することを理解するでしょう。世尊様よ、この<信頼できる真理の境地>というものはどんな姿でも、どんな観念でもないので、それだからこそ如来様は<信頼できる真理の境地>と名づけられたのです。

 それなので、世尊様よ、私がこのような経典を授かって聞いて、信じて理解することになり、信仰し続けることは難しいことではないのですが、もしこの次の世で2千5百年後にある人がこの経典を授かって、聞いて、信じて、理解し、信仰し続けることになれば、その人こそ末路は本当に一番稀有な人になるのです。

 なぜそうかというと、その人は<私という考え>もなく、<他人という考え>もなく、<生命たちという考え>もなく、<長生きするという考え>もないからなのです。なぜならば、<私という考え>がすなわち絶対観念(相)ではなく、<他人という考え>と<生命たちという考え>と<長生きするという考え>もすなわち絶対観念(相)のないということだからなのです。なぜそうかというならば、一切のあらゆる観念(相)を全て無くしたことを仏と名づけるからなのです。」

お釈迦様は須菩提に言われました。
「そうだ。そうだ。たとえば、次にある人がこの経典を聞いて、驚かずに、恐がらず、怖れなければ、当然わかるであろう。この人は本当に稀有な人なのだから。なぜかというと、須菩提よ、如来が言う一番の波羅蜜がすなわち一番の波羅蜜ではなく、その名前が一番の波羅蜜だというだけだからなのだ。

 須菩提よ、忍辱波羅蜜(にんにくはらみ)ではなく、名前を忍辱波羅蜜という、と如来が言われたのだ。なぜかというならば、須菩提よ、私が昔、歌利王(かりおう)に身体を切られてばらばらになった時に私がその時に<私という考え>がなく、<他人という考え>がなく、<生命たちと言う考え>がなく、<長生きするという考え>がなかったからなのだ。私が節々四肢を引き裂かれて切られたその時、もし私に<私という考え><他人という考え><生命たちという考え><長生きするという考え>があったならば、当然怒り狂って、恨む心をおこしていたことだろう。

 須菩提よ、さらに如来が過去五百年の間に忍辱仙人になっていた時を思い出すと、その世界でも<私という考え>がなく、<他人という考え>もなく、<生命という考え>もなく、<長生きするという考え>もないのだった。

 そのために、須菩提よ、菩薩は当然一切の観念(相)を無くし、阿耨多羅三藐三菩提心をおこすので、見えるもの(姿)についていかずに、心を表して当たり前に音や匂い、味、触感であるものやどんな法にもついて行かずに、心を表すのだ。当然執着することもなく、心をおこすことになるのだ。それなら、仮に心に執着することがあっても、執着することがないので、それなので、如来が言ったことが
「菩薩は当然、見えるもの(姿)に流されずに、布施をしなさい」と言われたのだ。

 須菩提よ、菩薩は一切の生命たちをよくするために当然このような布施をするので、如来が言う一切の観念(相)もすなわち観念にあらず、一切の生命たちといったこともすなわち生命たちではないのだ。

 須菩提よ、如来は真理の言葉を話す者であり、真実を話す者であり、真如の言葉を言う者であり、嘘を話さない者であり、他の言葉を話さない者なのだ。

 須菩提よ、如来が授けたことの真理はこの法が信頼できることもなく、かといって虚しい事もないのだ。

 須菩提よ、菩薩がもし心をある法にとどめて布施をしたならば、それはあたかも人が暗闇の中で、何も見えないことと同じことであるのだ。菩薩がもし心をどんな法にもとどめることなく布施をすれば、太陽の光が明るくさすときに明るい目でさまざまなあらゆる物体を分別して見ることができることと同じことなのだ。

 須菩提よ、次の世界で、たとえばある善の男、善の女がよくこの経典を授かって敬い、読んで覚えれば、すぐに如来が仏の智慧でこの人のすべてを理解し、この人の全てを見ることができるので、すべてが数えられないほど、限りのない功徳を成就する事になるのだ。」

 

第15 お経を敬う功徳

「須菩提よ、ある善の男、善の女が午前に恒河の砂の数と同じくらいたくさんの身体でもって布施をし、昼はさらに恒河の砂の数と同じくらいたくさんの身体でもって布施をし、また夕方にさらに恒河の砂の数と同じくらいの身体でもって布施をして、このように限りのない百千万億劫の間、身体で布施をしていたとする。またある人がもしこの経典を聞いて、疑問をおこさなければ、その福は前の身体の布施の福よりもはるかによいので、むしろこの経典を写経し、授かって敬い、読誦し、覚え、他人のために解説してあげる方がよいのだ。

 須菩提よ、切実に言うならば、この経典は考えることもできず、数えることもできないほど限りのない功徳があるのだから、如来が大乗の決心をする者のためにこの経典を話し、最上乗(有頂天)の決心をする者のためにこの経典を話すことになるのだ。

 たとえば、ある人がこの経典をよく授かって敬い、読誦し、覚えて、人々のために広く説明をすれば、如来はこの人を知り、この人を見て、この人は数えることができず、称賛することができず、終わりなく、十分に考えてみることもできないほどの功徳を成就する事になるのだ。

 このような人々はかならず如来の阿耨多羅三藐三菩提を担うことになるのだ。なぜそうなるかというならば、須菩提よ、もし小乗の法を好む人は<私という考え>、<他人という考え>、<生命たちという考え>、<長生きするという考え>に執着し、この経典をよく聞き取って、読み、覚えて、他人のためによく解説することができないからなのだ。

 須菩提よ、どんな場所でもこの経典がある場所ならば、一切の世界の天人たちと人と阿修羅とが必ず供養するところになるので、それを当然のごとく理解しなさい。

 この場所は必ず塔を奉る場所となるので、もちろん来る人皆が供養をして、おがんで、囲み、巡回しながら、さまざまなお花とお香をその場所に振りまくのだ。

 

第16 業障(ごうしょう:悪業によって生じた障害)をきれいに清めること

「また、須菩提よ、善の男・善の女がこの経典を授かり、身につけ、読み、覚えることによって、もし他人からばかにされるような目に遭ったら、この人は前世の罪業(カルマ)として、当然、悪道に落ちる運命をもっていたのだけれども、今世で他人からばかにされることによって、かならず前世の罪業が消滅し、もちろん阿耨多羅三藐三菩提を得ることになるのだ。

 須菩提よ、私が限りのない阿僧祗劫(あぞうちごう:遠い昔)前の過去を考えてみるに、燃燈仏(ねんとうぶつ)様の前に八百四千万億の那由他(なゆた)もの数のすべての仏様とお目にかかり、全て供養をし、奉り、仕えたので、むなしく暮らすことがなかったのだ。もし、またさらに他のいかなる人がこれから来る末世でこの経典を十分に授かり敬い、読誦し、覚えれば、この功徳は自分がその全ての如来様に供養する功徳の百分の一にも達することができず、千万億分の乃至は何らかの数学的な比喩としても十分に達する事はないのだ。

 須菩提よ、もし善の男・善の女がこの次の末世にこの経典を授かり、敬い、読誦する者が授かる功徳を私は全て整理して話しきることができない。しかし、ある人はその言葉を聞いて、必ず心が落ち着かなくなって、疑い深くなり、信じることができずに、誹謗すれば、須菩提よ、当然わかっているとは思うが、この人はこの経典の意味も十分に考えきれないので、その重い報いをさらに数える事のできないほどたくさん受けることになるのだ。

 

第17 ついに私はないのだ

 その時、須菩提がお釈迦様へ申し上げました。
「世尊様よ、善の男・善の女で阿耨多羅三藐三菩提の心を起こす者は当然に悟る心をどのようにとどめて、煩悩の心をどのように克服しなければならないのでしょうか」

 お釈迦様は須菩提に話されました。
「たとえば、善の男・善の女で阿耨多羅三藐三菩提の心を起こした者は当然にこのように心を表すことになるので、『私が十分に一切の人々を済度させるのだ。そして一切の人々を全て済度するのだが、実はひとりとして済度する者はいないのだ』と言った。

 須菩提よ、なぜならば、もし菩薩が<私という考え><他人という考え>・<生命たちという考え>・<長生きするという考え>があるならば、それはすなわち菩薩でないのだから。須菩提よ、その理由は実はどんな真理もない境地で阿耨多羅三藐三菩提を起こしたことになるからなのだ。」

「須菩提よ、お前はどう思うのだろうか、如来は燃燈仏様のいらっしゃる場所で授かるくらいの真理があって阿耨多羅三藐三菩提を授かったのだろうか」

「いいえ。世尊様よ、私がお釈迦様のおっしゃった意味を理解したことではお釈迦様が燃燈仏様の場所にいらっしゃるときに、とある真理があって、阿耨多羅三藐三菩提を授かることはなかったのです。」

 お釈迦様はおっしゃいました。
「そうだ須菩提よ、実にどんな真理もない境地で如来が阿耨多羅三藐三菩提を授かることになったのだ。

 須菩提よ、たとえとある真理があったとして、如来が阿耨多羅三藐三菩提を授かったならば、燃燈仏様から私に『お前が次の世で当たり前に如来(仏陀)となり、釈迦牟尼(しゃかむに)と名づけられるのだ』という授記はくださらなかったのだ。実にとある真理もない境地で阿耨多羅三藐三菩提を授かったことで燃燈仏様から私に授記をいただき、おっしゃられたことは『お前がこの次の世界で当然のごとく如来となり、その号名を釈迦牟尼としなさい』とおっしゃったのだ。

 なぜならば、如来という言葉は「全ての法が如如(よよ)する」のと同じ意味なのだ。そのためにたとえばある人が『如来が阿耨多羅三藐三菩提を授かった』と言ったとしても、須菩提よ、仏陀は実にどんな真理もない境地で阿耨多羅三藐三菩提を授かることになるのだ。須菩提よ、如来が授かる阿耨多羅三藐三菩提の中には真実でたくましいこともなく、かといって虚しい事もないのだ。

 そのせいで如来が話すことは『世界で一切の法はすべてこの仏法なのだ』というのだ。須菩提よ、いわゆる一切の法という言葉はすなわち一切の法ではないので、それゆえにその名前が一切の法というだけなのだ。須菩提よ。比べると人の身体はとても大きくなることと同じようなものだ」

 須菩提が申し上げました。
「世尊様よ、如来様がおっしゃる『人の身体がとても大きいこと』というのも実は大きい身体ではないので、その名前が大きい身体だというだけなのです。」

「須菩提よ、菩薩もさらに同じ様に言うだろう『私は限りなくたくさんの人々を済度したのだ』と言う者がいればこの人はすなわち菩薩と名づけることができないのだ。なぜそうかといえば、須菩提よ、実にどんな真理も心にもたない者を菩薩と名づけるからなのだ。そのために如来が言うことは『あらゆる種類の法が<私>もなく、<他人>もなく、<生命たち>もなく、<長生きすること>もないのだ』と言うのだ。

 須菩提よ、もし菩薩の言う『私が当然、仏国土を荘厳にするのだ』と言うならば、これは菩薩とは名づけられないのだ。なぜならば如来が話す仏国土の荘厳とはすなわち荘厳ではなく、その名前が荘厳というだけだからなのだ。

 須菩提よ、もし菩薩が<私がない真理>に精通していたならば、如来はこの人を正しい菩薩摩訶薩と名づけるのだ」

(つづく)

 

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