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●金剛般若波羅蜜経(4)(2009.7.24)

第18 一体をひとつとして見なさい

「須菩提よ、お前はどう思うだろうか。如来には肉眼(にくげん:人間に備わっている眼)があるのだろうか。」

「そうですね。世尊様よ、如来様は肉眼をもっていらっしゃいます。」

「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。如来は天眼(てんげん:すべてを見通すことのできる眼)をもっているだろうか」

「そうですね。世尊様よ、如来様は天眼をもっていらっしゃいます。」

「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。如来が慧眼(えげん:一切の事物を空であると見通す智慧の目)をもっているだろうか」

「そうですね、世尊様よ。如来様は慧眼をもっていらっしゃいます。」

「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。如来は法眼(ほうげん:諸法を見る智慧の眼)をもっているだろうか」

「そうですね。世尊様よ、如来様は法眼をお持ちでいらっしゃいます。」

「須菩提よ、お前はどう思うだろうか。如来が仏眼(ぶつげん:一切を見通す、悟りを開いた者の眼。すべての生命を仏としてみる眼)をもっているだろうか」

「そうですね。世尊様よ、如来様は仏眼を持っていらっしゃいます。」

「須菩提よ、お前はどう思うだろうか。あの恒河の中にあまたの砂のことを如来が話したことがあるだろうか」

「そうですね。世尊様よ。如来様が恒河の砂のことを話されました。」

「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。あのひとつの恒河の中にある砂の数と同じくらいたくさんの恒河がさらにあって、この全ての恒河の砂と同じ数の仏世界があれば、その世界を誠としてたくさんになっていくのだろうか。」

「とてもたくさんでしょう。世尊様よ。」

 お釈迦様は須菩提におっしゃいました。
「あのたくさんの世界の中にある全ての人々のさまざまな心を如来が知っているのだ。なぜそうかというと、如来が話す全ての心とは全部このことは心ではなく、その名前が心というだけであることだからなのだ。

 その理由は須菩提よ、過ぎていった心も得ることができず、現在の心も得ることができなくて、未来の心も得ることができないからなのだ。」

 

第19 法界をあまねく教えなさい

「須菩提よ、お前はどう思うか。たとえばある人が三千大千世界にいっぱいに満ちた七つの宝をもって、広く布施をすれば、この人がこの因縁として授かった福はたくさんになるだろう。」

「そのとおりです、世尊様よ。この人はこの因縁でとても多くの福を授かります」

「須菩提よ、たとえ福徳が本当にあるならば、如来は福徳をたくさん授かるとは言わないことになるので、福徳が本来はなく、如来はたくさんの福を授かるといわれるのだ。」

 

第20 色身を無くした法身如来

「須菩提よ、お前はどう考えるだろう。十分に満ち足りて備わった神々しい肉身として如来を見る事ができるだろうか」

「いいえ。世尊様よ。神々しく、満ち足りた肉身を持ち、如来様を見ることはできません。なぜならば如来様がおっしゃる満ち足りた肉身ではなく、その名前が満ち足りた肉身というだけであるからです。」

「須菩提よ、お前はどう思うか。十分に満ち足りた諸相(体格)をもって如来を見る事ができるだろうか」

「いいえ。世尊様よ。満ち足りた諸相をもって如来様にお目にかかることはできません。なぜそうかと言いますと、如来様がおっしゃる全ての諸相が満ち足りたとおっしゃることはすなわち満ち足りることではなく、その名前が、満ち足りているというだけなのです。」

 

第21 言葉を無くした説法

「須菩提よ、お前はこんなふうに言ってはいけない。
『如来が<私が話したことは当たり前に真理の説法であるのだ>と考えた』と言ってはいけない。なぜならばもし、ある人が話したことで
『如来が真理の説法を話したことがある』と言えば、これはすなわち如来を誹謗することになるからで、私が話す意味をわかっていないことになるからだ。

 須菩提よ、真理を話すということは真理がないことを話すことであって、その名前が真理を話すことのみなのだ。」

その時、慧命須菩提がお釈迦様に申し上げました。
「世尊様、この次の世界でたとえばある人がいて、この真理の言葉を聞いて信じる心を表すことができるでしょうか。

 お釈迦様がおっしゃいました。
「須菩提よ、その人たちが人ではなく、人でないこともないのに、どうしてそのようなことになっているのだろうか。須菩提よ人が人だということは如来が人ではないことを言うことになるので、その名前が人とよばれているだけなのだ。」

 

第22 真理は得ることがない

 須菩提がお釈迦様に申し上げました。
「世尊様よ、仏さまが阿耨多羅三藐三菩提を授かったことは授かったことがないことなのです」

 お釈迦様はおっしゃいました。
「そのとおりだ、須菩提よ。私が阿耨多羅三藐三菩提というのは私がどんな真理もちょっとでも残っていない境地で何も授かるものがないことを阿耨多羅三藐三菩提と名づけていただけなのだ」

 

第23 清らかな心で善を磨け

「さらに須菩提よ、この真理が平等に高く、低いものはないので、このことを阿耨多羅三藐三菩提と名づけているのだ。<私>もなく、<他人>もなく、<生命たち>もなく、<長生きする事>もないさまざまな神々しい善の法を磨けば阿耨多羅三藐三菩提を得るのだ。

 須菩提よ、いわゆる神々しい法(=善の法)ということは如来がすなわち神々しい法でないものを起こす言葉であり、その名前が神々しい法というだけなのだ」

 

第24 福と智慧を比較することはできない

「須菩提よ、ある人が全ての三千大千世界で一番大きい山の須弥山王くらいの七つの宝の塊を持って、それを広く布施したと言ったとしても、もしさらに他のある人がこの般若波羅蜜経乃至4句の偈頌(げじゅ)だけも授かり敬い、読んで、覚えて、他人のために演説してあげれば、先の福徳はその百分の一にもならず、百千万億分の一にもならず、乃至は数字があるすべてを集めて比較したとしても、間に合う事はないのだ。」

(つづく)

 

 

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