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●金剛般若波羅蜜経(5(2009.7.25)

第25 教えてもひとつもない

「須菩提よ、お前はどのように考えるのか。お前たちは如来が考えることで『私は人々を当然済度するのだ』ということを言ってはならない。須菩提よ、このような考えをしてはいけない。なぜそうかというと、実に如来には済度する人々がないからなのだ。また、もし如来が済度することがあったとすれば、如来はすなわち<私という考え>・<他人という考え>・<生命たちという考え>・<長生きするという考え>があることになってしまうからだ。

 須菩提よ、如来が<私という考え>があったということはすなわち<私という考え>があることがないことをいうことなのだけれども、凡人(愚か者)たちは<私という考え>があると思うだけなのだ。須菩提よ、凡人と言葉も如来はすなわち凡人ではないことを示す言葉なのだから、その名前が凡人というだけなのだ。」

 

第26 法身は存在がないのだ

「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。十分に32の神々しい身体(三十二相)として如来を見る事ができると考えるだろうか。」

 須菩提が申し上げました。
「そのとおりです。32の神々しい身体として如来様にお目にかかることができます。」

 お釈迦様はおっしゃいました。
「もし、32の神々しい身体として如来を見ることができるならば、転輪聖王もすなわち如来というのだろうか。」

 須菩提がお釈迦様に申し上げました。
「世尊様よ、お釈迦様のおっしゃる意味を私が理解することでは32の神々しい身体として如来様にお目にかかることはできません。」

その時世尊様は偈頌としておっしゃいました。

「もし、姿として私を見ようとしたり、音声として私を探そうとしたりすれば、この二つはすなわち邪道をなす者だ。如来を永遠に見ることはできないのだ。」

 

第27 全くないことではないのだ

「須菩提よ、お前がたとえ考えることで『如来が満ち足りた身体(具足相)を整えないために阿耨多羅三藐三菩提を授かるのだ。』と言うのだろうか。そのような考えをしてはならない。『如来が満ち足りた様相を備えていないために阿耨多羅三藐三菩提を授かるのだ』と言ってはいけない。」「須菩提よ、お前がもし考えることで『阿耨多羅三藐三菩提の心を起こす者は全て、法が断たれることは全くないことを示す』というならば、このような考えをおこしてはならない。なぜそうかというと、阿耨多羅三藐三菩提の心をおこす者は全てのことが断たれなくなること(断滅相)が真理だと言うことがないからなのだ。」

 

第28 もらってもなく、貪ってもいない

「須菩提よ、たとえある菩薩が恒河の砂の数と同じくらいたくさんの世界でいっぱいに満たされた七つの宝をもって、広く布施をしたとして、たとえばまたある人が一切の法に私がない(無我)の真理を知って悟りをおこしたとしたら、この菩薩が受けた功徳は前の菩薩が受けた功徳より秀でているのだ。なぜならば、須菩提よ、すべての菩薩たちは福徳を受けないからなのだ。」

 須菩提がお釈迦様に申し上げました。
「世尊様よ、どうして菩薩が福徳を受けることがないのでしょうか。」

「須菩提よ、菩薩は自分がつくるところの福徳に貪着しないために、そのために福徳を受けないということなのだ。」

 

第29 威儀(いぎ)が静かである

「須菩提よ、もしある人が話すことで『如来がもし行ったり来たりするか、あるいは座ったり横になったりしている』と言うならば、この人は私が言うところの意味がわかっていない人である。なぜそうかというと、如来はどこに来ることもなく、さらにどこへ行くこともないので、如来と名づけられているのだから。」

 

第30 真理と現状は二つではない

「須菩提よ、もし善の男・善の女が三千大千世界を壊していく塵をつくったとしたら、お前の考えはどうか?このような塵がどれくらいたくさんあるのだろうか。」

「ひどくたくさんです。世尊様よ。なぜそうかといえば、たとえこの塵が本当にある本質的な存在だとしたら、お釈迦様はすなわちその細かい塵だとおっしゃることはなかったのだからです。それはさらになぜかというならば、お釈迦様がおっしゃる細かい塵はすなわち細かい塵ではなく、その名前が細かい塵だと呼ばれるだけだからです。

 世尊様よ、如来様がおっしゃる三千大千世界もすなわち世界ではなく、その名前が世界というだけなのです。なぜそのようかと申し上げれば、たとえ世界が実に本質的な存在だとすると、すなわちそれは絶対の一つの模様(一合相)だということで、如来様がおっしゃる絶対の一つの模様も実は絶対の一つの模様ではなく、その名前が絶対の一つの模様というだけだからなのです。」

「須菩提よ、絶対の一つの模様というものはこれを言葉で表すことができないのだけれど、ただ単に愚かな人々がそれに貪着するだけなのだ」

 

第31 知見を出すな

「須菩提よ、もしある人が話して『如来が<私という知見>と<他人と言う知見>と<生命たちという知見>と<長生きする知見>を話した』と言ったとすると、須菩提よ、お前はどう考えるのか。この人は私が話した真理をきちんとわかることができるだろうか。」

「いいえ。世尊様よ。この人は如来様がおっしゃる真理をわかっておりません。なぜそうかというと、世尊様がおっしゃる<私という知見>と<他人という知見>と<生命たちという知見>と<長生きする知見>はすなわち<私という知見>ではなく、<他人という知見>ではなく、<生命たちという知見>ではなく、<長生きするという知見>ではないという理由からです。」

「須菩提よ、阿耨多羅三藐三菩提の心をおこす者はさまざまな法で必ずこのように知り、このように見て、このように信じて、このように悟る真理と言う考え(法相)を出してはならないことなのだ。須菩提よ、<真理という考え>も如来がすなわち<真理という考え>としてではなく、ただ、その名前が<真理としての考え>であると言われただけなのだ。」

 

第32 応化身は真のことではない

「須菩提よ、たとえある人が限りない阿僧祗の世界にいっぱいに満たされた七つの宝をもって広く布施をしたとしても、もし菩薩心をおこした善の男・善の女がいて、この経典を授かって、乃至は4句偈でも授かり受けて読み、覚えて他の人のために演説してあげれば、その福があの福よりさらに秀でる事になるのだ。どのようにすることが人のために演説することになるか。考えと現状についていかずに、ありのままに(如如)動かないでいることなのだ。その理由は次のようになる。

 一切の現状界の全ての生命の法は夢であり、幻であり、水の泡であり、影のようで、露のようで、雷のようなので、当然、このように見えるのだ。」

 お釈迦様はこの経典を全て申し上げることで長老の須菩提と比丘・比丘尼と優婆塞・優婆夷と一切の世間の天人とこの世界の人と阿修羅などがお釈迦様の説法を聞いて皆すべてが大きく嬉しく信じて、奉り拝みました。

(つづく)

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