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●心は全ての基礎になる(2) (2009.9.1) 

「八萬大蔵経」 法句経の教訓 (2)
1節 心は全ての基礎になる
(つづき)

42、 心をすべて尽くして、花を欲張って取る人を死は捕らえ、連れて行くのです。まるで眠りにつこうとしている人を荒々しい水が襲うようです。

43、 心を尽くし、花を欲張ってとる人を死は降伏として受けとるのです。欲望をいまだ消し去る前に。

44、 人の間違いや人の行い、行わなかったことを見てはならない。ただひたすら、自分の行い、行わなかったことを見なければならない。

45、 愛らしく、光の出る花に香りがないことと同じ様に良い教えの言葉も実行しなければその結果はないのです。

46、 愛らしく、光の出る花の香りがあることと同じ様に、良い教えの言葉を正しく行えば、その結果はあるのです。

47、 いろいろな花を集め、たくさんの花束を作れることと同じ様に、人として生まれれば、たくさんの善良な行いをしなければならない。

48、 花の香りは風に吹かれては吸うことができないのです。「チョンダン」も「タガルラ」も「マッリガ」もそうなのでした。けれども、善良な人の香りは風に吹かれても吸うことができるのです。善良な人士(じんし)は全ての場所でその香りを吸うことができるのです。

49、 「ダガルラ」、「チョンダン」の香りはぼんやりとしているのです。けれども戒を備える人の香りは全ての空にまでいたる香りの道と比べることはできないのです。

50、 戒を備えて、わがままをしないことによって、正しく知って「解脱」する人に対しては、「マーラ(悪魔)」はチャンスをうかがうことはないのです。

51、 大きな道に捨てられたゴミの山の中に花らしく、香りがあり、美しい蓮の花が現れるのと同じことです。

52、 このようにゴミと同じように盲人の凡人の中で正自覚者の弟子は慧明として示されたのです。

53、 寝付くことができない人に夜は長く、疲れている人には道が遠く、正しい法を知らない愚かな人には生死が長いのです。

54、 道を行く途中で、自分より優れている人と、さらに自分と同じくらいの人に会うことはないので、かえってひとりで進んで間違えがないようにしなさい。愚かな人の同伴者にならないようにしなさい。

55、 「私の息子だ、私の財産だ」と言い、愚かな人は苦しみ悶々と悩むのです。私の「私」がすでにないので、誰の息子で、誰の財産なのだろうか?

56、 愚か者は人として「私は愚か者だ」と考えることはもはや善良なことです。愚か者なら「私は善良だ」と考える人こそ愚か者なのです。

57、 愚かな人は一生涯において善良な人の近くにいたとしても現れる法を知らないのです。さじがスープの味を知らないのと同じです。

58、 智慧のある人は少しでも善良な人の近くにいれば、必ず正しい法を知るのです。舌がスープの味を知っているのと同じです。

59、 愚かな智慧のない凡人は自分に対する仇のような行動をするのです。そして悪い業(カルマ)をつくり苦痛の結果を受けるのです。

60、 正しくない罪がまだ実る前では愚かな人はそれをはちみつのように考えるのです。そうこうする内にその正しくない罪がまっしぐらに実ると愚かな人はそのとき初めて悩むのです。

61、 つくられた悪業はまるで新しく絞った牛乳のようにその場で腐ってしまわずに、追いかけてつきまといながら、愚かな人を苦しめるのです。まるで灰に覆われた火のようです。

62、 つまらない尊敬を望む人はたくさんいます。比丘(びく:お坊さん)たちの間では他人より先にたつことを望み、お寺の中では主権を望み、他人の家では供養を受けることを望むのです。

63、 俗人や僧でも「これはまちがいなく私のためにつくられたものだ」と考え、「やるすべてのことや、やらないこと、すべては私の思い通りにすることができるのだ」と考える人がいます。これは愚かな人の考えることとしてこのようにいわれ、その愚かな人の欲望と傲慢はさらに増えていくのです。

64、 ひとつは利養の道、ひとつは「ニルバーナ」の道、このように明るく悟ったお釈迦様の弟子である比丘は名聞(出世)を良いと言ってはならないのです。

65、 宝物を大切にしまっている場所を知っている人が、他人に隠さなければならないことを教えて、そのことや間違いを指摘して注意してくれる聡明で智慧のある人に出会う時はこの善良な人の仲間になりなさい。このような人は仲間としているときは勝利があり、過ちがないのです。

66、 教えてあげ、教えて警戒しなさい、当然に思ってはいけないことを避けなさい。それは善良な人の愛を言うのであって、善良ではない人を愛さないことなのです。

67、 悪い友達と仲間にならず、凡庸で劣った人と仲間になってはならない。善良な友達と仲間になりなさい。秀でて優れた学識ある人と友達になりなさい。

68、 法の水を飲む人は気分よく眠ります。心が晴れ渡り、このような善良な人はいつも聖人の言葉を話す法を楽しむのです。

69、 農業をする人は田んぼに水を引き、弓を作る人は矢を取り扱い、大工は木を扱い、智慧のある人は自分を取り扱うのです。

70、 強い風に揺れないことと同じように、善良な人は批判と称賛の中でも動じる事はないのです。

71、 深い池は清らかで静かなことと同じように、智慧のある人は道に入って平安でいるのです。

72、 善士は全てのことを捨てて、欲望をむさぼらず、心配したり、ため息をついたりもしないのです。楽しみに出会ってもさらに苦しみに出会っても苦しみもせず、さらに悲しみもしないのです。

73、 善士は自分のためであったり、または他人のためであったり、子孫を望まないのです。財産やまたは土地も法でないものならば、自分のための繁栄を望んではならない。それはよく智慧を使って、正しく行わなければならないのです。

74、 通り過ぎなければならない道をすでに通り過ぎ、心配をなくし、全てのことで「解脱」して、全ての束縛を断つ人に対しては苦しみと煩悩があるはずがないのです。

75、 それらはかぎりなく勤勉で、深い考えをするので、住む家を楽しんだりはしないのです。ガチョウが小さい池を捨てることと同じで全ての住む場所を捨てるのです。

76、 もし人が積み重ねておくところがなく、書き取る事で節度があって心が空っぽで、相がなく、「解脱」した時には、その人の通り過ぎた軌跡を探すことが難しいのです。まるで空中に飛ぶ鳥の軌跡と同じようです。

77、 村落にあっても、森の中にあっても、土壇場にあっても、高原にあっても、「阿羅漢」が住む場所で楽しくないところはあるはずがないのです。

78、 森は愛せば嬉しがるので、これは俗人たちが好きではないところなのです。しかし、欲望を断つ人はここを楽しむのです。それらは愛欲を求めないからなのです。

79、 役に立たない一句からできる千節の言葉よりも、聞いた時に平安な気持ちにさせるひとつの有益な一句の方が勝っているというのです。

80、 利益がない一句でできている一節の偈よりも、聞いた時に平安な気持ちにさせるひとつの偈文の方が勝っているのです。

81、 利益がない一句でできている百の偈を覚えても、聞いた時に平安な気持ちにさせるひとつの法句にはおよばないのです。

82、 戦場にあって、数千の敵を追い払うことよりひとりの自分に勝つ人こそ本当の戦士の中でのナンバーワンなのです。

83、 自分に打ち勝つことが素晴らしいのです。他のあらゆる人に勝つことはないのです。自分に従いなさい。

84、 礼節をよく守り、いつも長老を敬う人に対しては、4種類の福が加わり、増えていくのです。寿と美しさと楽しさと力になります。

85、 もし人が百年もの長い間生きても、悪い戒がむやみに襲い掛かるなら、一日中生きて、戒を備えて、静かに考えることには及ばないのです。

86、 もし人が百年もの長い間生きたとしても、悪い戒がめまぐるしく暴れまわるなら、一日中生きて、智慧を備え、静かに考えることには同じ様には及ばないのです。

87、 もし人が百年もの長い間生きたとしても、怠惰で臆病にすすれば、一日中生きて、勇猛で努力し、頑丈にあることとは同じ様には及ばないのです。

88、 人がたとえ悪の行動をしたとしても、そのことをいつも繰返すな。その間にはうれしいことがないのです。悪が何度も積み重なることは苦しみなのです。

89、 人がもし福をつくったとすれば、それはいつも、いつも繰返ししなさい。その間には喜びがあるのです。福がいくつも積み重なることが楽しみなのです。

90、 悪の果実が実る前には悪い人も福に出会うのです。悪の果実が実る時には、悪い人は罪を受けるのです。

91、 そのことは災いがないことだと言って、少しだけの悪だと軽くみてはならない。一滴の水はたとえ少なくても次々と滴り落ちるので大きな瓶をいっぱいにすることになるのです。この世界のその大きな罪悪も小さい悪が積み重なって成り立っていることなのです。

92、 誰かがどんなに言葉を作り出して、邪魔をしても、その人に罪がなければその人を汚すことはできないのです。風の前で飛び散るちりと同じように災いはかえって自分を汚すことになるのです。

93、 虚空もなく、海もないのです。深い山の岩の隙間に入って隠れたとしても死の力が及ばずにいることはこの世界ではありえないのです。

 

 

 

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