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●暦の始まり(7)(八陽経)<4>(2009.1.13)

 私たちが持っている八識の秘密

その後、無変身菩薩様が席から立ちあがって、お釈迦様に聞きました。
「お釈迦様よ、なぜこの経典を天地八陽経と呼ぶのでしょうか。
お釈迦様よ、願わくはその理由を教えてください。今日ここに集まったみんなが理解できるように、心にある疑問が解かれるように、急いでこの内容に精通できるように、お釈迦様がおっしゃるこの八陽経の中において疑問や疑いが全てなくなるようにお願いします。」

そしてお釈迦様が答えました。
「よしよし、男よ。あなたたちみんな、しっかりと聞きなさい。これから私があなたたちみんなのため、天地八陽経の意味を整理しながら説明しよう。」
「天(宇宙)は陽、地は陰。八は分別、陽ははっきりとわかるという意味だ。」

ここでお釈迦様のいう八の意味の説明を整理しながら先に書いておきます。

 

 そもそも八とは私たち誰でもが持っている八識のことです。  
 八識とはいつもさまざまな限りない色を見ている人間の目、いつもさまざまな限りない音を聞いている肉体の耳、さまざまな限りない香をかいでいる鼻、いつもさまざまな味を見る舌、いつもさまざまな限りない触感を得ている身体または皮膚、さまざまな限りない事柄を感じる心の6つの識があるとされていましたが、わたしたちが認識するのはそれだけでは説明できません。私たちが死ねば、この6つの識は自然に還され、前世や来世に残るものは魂で、宿命の詳細なデータを持つのはこの魂なのです。

 その魂は私たちの体にいつも宿っているのですが、その魂を8つ目の識、アルェヤ識(阿頼耶識)で説明しています。アルェヤ識とは目に見えるものではありませんが、存在する全ての生命の肉体を維持させている業と輪廻の種(心種子)が保存されているところで、一生の間切れることのないものです。これが生命の存在する根本、根っこになっていて、種から芽が出てやがて葉っぱが生えて、花が咲き、枯れて、また種となって輪廻していきます。

 アルェヤ識に保存されている業(=カルマ)は7つ目の識、マルナ識(末那識)から出てきています。マルナ識とはいつもこのアルェヤ識について回っていて、アルェヤ識に種をふりまいています。どのような種かというと、人間の4種類の根本的な煩悩と呼ばれるものです。それは私たちが意図しなくても、出てきてしまう行為や行動のことで、知らず知らずの間に無知(我癡)と執着(我見)、驕慢(我慢)、愛着(我愛)で行動、行為をしてしまうのです。マルナ識は常に我侭で、エゴイスティックなものです。

この考え方は8種類の意識の作用についての仏教の考え方です。
 大きく「前五識(眼,耳,鼻,舌,身)」と「後三識(意識,マルナ識,アルェヤ識)」に分けることもできます。つまり、「前五識」を通じて入ってきた外からの情報や出来事を処理するところが6つ目の「意識」です。そして意識は7つ目の「マルナ識」によって「私」に執着し、「私」を中心に、「私」にとって有益なのか、有益でないのかを判断して処理するようになっているのです。

 また、「心」という場合は6識の意識がマルナ識に頼って、前五識を通じて外部から入ってきた情報によって現れる多様な感じることや感情までを含んだものを言います。それで私たちの心は常に入力される外部情報によってこちらも常に変化していきます。さらに感じる事のできない8つ目のアルェヤ識からも意識とマルナ識が影響をお互いに受けています。

 たとえばおいしいキムチを作るとき、さまざまな材料を入れます。その材料は私たちが口や身体でおこしてきた人生における行動や行為にあたります。それをアルェヤ識にいれるとさまざまな材料をもとにキムチが出来上がるように、アルェヤ識もその材料から次の生命を作り出していくのです。
したがって、肉体が死んで自然にあるものが元の自然に還っていけば、八識の中の肉体に由来している前五識と意識とマルナ識は消えてなくなってしまいます。ただし、アルェヤ識だけが消えないで肉体があった時に行った種たち(行為、行動、業、情報)だけをそっくりそのまま記録し、完全なデータとして貯えたまま、また他の縁と結びついて、他の肉体を受け取ることになります。

 アルェヤ識は私たち全ての人生のデータが塵一つもらさずに記録されています。それは以前「皆が仏様、神様になる道(1)」で書いた自然の神様の神秘の鏡の原理と同じで、この鏡の方式の人間用ミニ鏡と考えてもよいですし、アルェヤ識にいる私たち一人ひとりの専用の記録係としてのエンジェル(天人)とも考えられます。

 そして、アルェヤ識はマルナ識が作り出した善や悪というどんな性質を持っている情報でもすべて記録して、保管することができます。このようなアルェヤ識自体の性質を無記性といって、記録保管をするときも善とも悪とも決して判断しない非善非悪の中性である無記性の状態として記録保管していく。それを異熟無記性と言います。

 また、どんな感情もおこさず常に中立でクールなまま、大きな河の流れのように静寂なアルェヤ識を無覆無記性というのに対して、煩悩の性格からいつも不安定で騒々しく、粗雑なマルナ識を有覆無記性といいます。また、大乗仏教では第9のアマラ識というのが存在するとも言われています。これは汚れのない、きれいなという意味で、無垢識 または白浄識とも言われています。

香華請

【真言】 ヒャンフファチョン(3回繰り返し) プルシンボビョンシバンジュン サムセヨレ イルチェドン グァンデウォヌン ハンブジン ウァンヤンガケ ミョラングン ゴアイルシム クィミョンジョンレ

 

【意味】私たちの苦労が止まる幸せの道を教えてくれたので、仏様に布施をする歌。きれいなお花と良いお線香をお供えしてお釈迦様を呼んで歌で布施をします。お釈迦様と急いで出会い、悟りを開き、幸せが永遠に続きますように楽しく歌います。

 アルェヤ識は生命の根源である輪廻の種、または心種子を保存していますが、それでもアルェヤ識は人間の五蘊(色、受、想、行、識)に染まることなく、善悪の判断もせず、三毒(貪瞋癡)もありません。このことはお釈迦様の全ての説法の根源を表していますが、その説法に干渉することもなく、生命の輪廻を繰り返し続けています。繰り返していてもやはり、染まることなく常に素直なアルェヤ識なので、天国のエンジェルと同じなのです。この消えることのない特性を仏種子と呼び、仏種子のおかげで、マルェヤ識の根本的な心によっていつでも仏様の真理の説法と出会うことができれば、悟りを開き、成仏することができます。一度大きな息を吸う間に全ての苦労が止まり一瞬で悟りを開くことができるのです。早く理解すれば早いし、長ければいいというものではありません。

 私たちがどの物事に対する時でも受け取る感受作用には「苦、楽、憂、喜、捨」の5つの感じ(五受)があります。その中の苦しみと楽しみは身体的な面での感覚として受取り、懸念(憂)と喜び(喜)は精神的な面で受け取る感覚です。しかし、苦しみや楽しみでもなく、さらに懸念や喜びでもない状態、理解できたので止まった状態、その状態の非善非悪の捨受というのは魂であるアルェヤ識だけが受け取ることのできる感覚なのです。

以上で八識の説明は終わります。次回からは八陽経に戻ります。

 

 


 

 

 

 

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