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●お釈迦様の過ぎ去った世の中 (2009.9.4) 

第1編 お釈迦様の出現

第1章 お釈迦様の過ぎ去った世の中

第1節 長い年月の菩薩の願いと行い

1.お釈迦様が<シュラバスティ(舎衛国)>の<祇園精舎>にいらっしゃったときのことです。「比丘」たちはこの朝に、袈裟を着て木の器を持って、<シュラバスティ>の城の中に入って行って、ご飯をもらうように乞い、帰ってくると、食事を終えて服と器をもって、手を洗い、講堂に集まり、このように議論しました。

『お釈迦様がこの世界に現れることは本当にこの上ない大人相と80種類の神秘の姿を整えられていて、全ての煩悩を終わらせられ、解脱の道を授かってきて、最も正しい悟りを成就されて、いわゆる「如来」「応供(ウンゴン)」「お釈迦様」「世尊」と呼ばれる10種類の名前を備わって、天上でも人間の全ての世界でもっとも徳の高いお坊さんでいらっしゃるのです。終わりのない智慧と慈悲と神通力で天上の人間のすべての生命たちのために法を説法し教えてくださり、さらに全ての外道と悪魔を感化させて、降伏させる自在な威神力を十分に取り揃えられるので、これは必ずや簡単な因縁として成し遂げられないことです。長く通り過ぎていった世の中から降り積もっていらっしゃる修行の功徳として成就する事なのだ』と。それなのでお釈迦様がこの世にお釈迦様として現れるまで通り過ぎた世の因縁を聞きたいと言いました。

 その時にお釈迦様は一人で<祇園精舎>の後ろ側、竹林の静かな場所に座り、禅定に入り、きれいな「他心智力」と耳にする場所で、ひっかかるようなものがない「天耳通」で比丘たちの考えることと議論する言葉を全て理解し、聞かれ、静かに席から立ち上がり、講堂に出て行って、大衆の間に座られ、「比丘」たちにお話されました。

『お前たち、ここに集まり何の説法を聞き、議論しているのか?』
『お釈迦様、私たちは食事を終えた後にこの場所に集まり、お釈迦様が天上の人間で最も神々しいお坊さんになられたことは簡単な因縁として成し遂げられないことだと考えて、お釈迦様に過去の世で道を磨いた因縁について聞こうと議論していました。』
『よく考えたものだ。お前たちが如来の通り過ぎた世のことを聞こうとしたので、しっかりと聞きなさい。お前たちのために説法するのだ。』
と言われ、お釈迦様は過ぎていった世界から今日に至るまでの悟りの道を磨いて成就された因縁を説法されました。

2.『お前たちが考えたように如来がこの世界で全ての煩悩を全部終わらせ、この上ない「正覚」を果たし、現れて、死の海を渡り、人間の天上に最も高い師匠である「仏」となったことは、簡単な因縁・因果として成就することではないのだ。

 比丘たちよ、「如来」も最初には普通の人と同じ凡人だった。けれども長くそれほど遠い昔に生まれ死ぬ事の海の中から自ら悟ることとなり、真実の悟りの道の心をおこす道が生死から抜け出す「解脱の道」を求めようと、生命として最も神々しい「菩提心」をおこして広く「菩薩」の願いと行い(願行)を磨いたのだ。

3.比丘たちよ、過去の世界で本当の道心(悟りの道を信じる心)をおこして、真実に修行した菩薩がひとりいたので、その名前を善慧と言われたのだ。(または護明ともいう)。
<善慧菩薩>は生まれて死ぬ輪廻の海を抜け出す仏の悟りの道を求めようと一番尊い道心をおこした後で、上に仏陀の智慧を求め、下に生命を済度する菩薩の大きな願行を磨く事を怠らなかったのだ。

 <善慧菩薩>は菩薩の願行を磨いた時に清らかな「梵行(明るい戒律の行い)」を磨いて、生命たちを済度するために生まれ死ぬことから逃げずに、天上界と人間界を代わる代わる生まれることを限りなく繰返ししたのだ。例えば、天下の草と木を全て切って数えてみてもその数を全て数えることはできないことなのだ。

 <菩薩>は長い年月をかけて数多い全ての仏陀とお目にかかり大切に敬って、仕え、仏様の説法を聞いて、ずっと実践して、さらに衣服・食事・寝具・医薬を修行している僧達に供養してきたのだ。その菩薩はこのように善根の種子を植えてきたのだ。

4.<菩薩>は考えることをすべて生命たちがたくさん生まれて死ぬ輪廻の海に落ちて抜け出すことができないことは、その根本が貪欲をおこす心、怒りをおこす心、愚かな心[貪・瞋・痴心]の3種類の煩悩が種となり、この3つの煩悩は目・耳・鼻・口・体・心の6つの感覚器官を動かし、色彩・音・香り・味・触感・知覚の6つの感覚作用にしたがう状況になる貪欲と愛着心をおこして、意思にあわないときは怒りの心をおこして、その欲情をたくさん詰めるためにもってきた罪悪をまたつくるようになるので、これがすなわち愚かな事なのだ。このように「貪欲・怒り・愚かさ」にちなんでもってきた罪業をつくることを深く観察して、この生命たちにこのように煩悩と罪業から抜け出すようにさせる誓いをし、どの世界に生まれ変ってもこの考えを忘れなかったのだ。

 <菩薩>は全てのものを布施して、布施行に自らの欲望を捨て、さらに貧しい人たちを引き受けて、持戒行(きれいな戒律の行い)を磨き、自らの卑しい行いを治め、卑しい行いをする人たちを引き受けて、忍辱行(全ての不名誉、苦しいことを我慢すること)自らの怒りを治め、怒る人たちを引き受けて、断つことない精進行をして、自らの怠惰を治め、怠惰な人たちを引き受けて、心をひとつにして禅定を磨き、自らの散漫な心を治め、散漫な人々を引き受けて、全ての道理を正しく見て悟る智慧を磨いて自らの愚かさを治めて愚かな人たちを引き受けたのです。
このように自らを磨き、人を済度したところで怠けないで人々の頼るところとなって、指導者になっていたのだ。

5.<菩薩>はすべての生命たちを広く愛す心(慈)、すべての生命たちを広くかわいそうに思う心(悲)、すべての生命たちをすべて嬉しくする心(喜)、すべての生命たちが親切に、憎みなく平等に思う心(捨)、このような四無量心とさらにあるもの全てを布施して(布施)、愛する言葉で済度して(愛語)、他人に利益となることをして(利行)、他人のことを自分のことのように支えてあげる(同事)四摂法としてひろく全ての生命たちを済度し、引き受けてきたのだ。

 

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