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●5人の比丘とヤシャの救援 (2009.9.8) 

第1編 お釈迦様の出現

第5章 法輪を転がす

第2節 5人の比丘と<ヤシャ>の救援

1.お釈迦様はふたりの商人と別れて、また前に進み、<パーラーナシー>の<鹿野苑>に着いた。その時に5人は遠くから歩いてくるお釈迦様を見つけて、

『あー、<サマナ・ゴータマ>は苦行を捨てて、おいしい食べ物をもらって食べて、また悟りを磨く心もなくして、あんなふうにぶらぶらしているなぁ。これからここに来たとしても、私たちは立ち上がって相手にせずに、敬礼もしないでおこう。そして、座る場所を探してあげたりせずに、座ろうとしても自分の勝手にさせてほうっておこう。』

と話し合ったのだった。お釈迦様はついに5人の前に現れました。5人は反射的にびっくりして立ち上がってお辞儀をし、敬って挨拶した。それはお釈迦様が前に会った姿と全く変わっていて、光明に包まれて威厳があり、人に対して威圧的な姿になっていたからだった。5人のある者は席を準備して、またある者はお釈迦様の足を洗う水を用意して、ある者は衣服と足を洗ってあげて靴を整えた。お釈迦様はその人たちに向かって

2.『お前たちは、はじめ私を捨てて行って、いまは私を見ても立ち上がるまいと約束しながらも、なぜ立ち上がって私と会って、さらに私のために今や仕えているのか?』

5人はとても恥ずかしくなり
『長老<ゴータマ>よ、身色と威儀がとても清らかで光りが輝いて、さらによくみえたのです。』
『お前たちは私に今も傲慢な考えをもっているのだな。私は切るものは切って悟るものは悟り、私のすることはもう終わったのだ。お前たちは今から<サマナ・ゴータマ>と呼ばずに「仏陀・如来・世尊」と呼びなさい。私は「一切種智」を成就したのだから。』

<コーンダニャ>たちはこの言葉を聞いて、さらに恥ずかしくなり、
『私たちは愚かで<シッダルター>太子がすでに「正覚」を得られたことを知らなかったのです。6年の間をある日のように米一粒、ごま一粒を召し上がっていた途中で、突然少女が差し上げたミルク粥を受け取り召し上がったので私たちは堕落したと考えたからなのです。』

『お前たちは小さな智慧で私のすることを理解してはならない。悟りはただひたすら体を苦しめることだけでは得ることができず、さらに体と心を落ち着かせて喜んですることだけでも得ることはできないのだ。苦と楽の両方をなくして、「中道」を行う者だけが悟りを授かることになるのだ。』
この説教をはじめとしてひろく悟りを磨く法をお話しされたのだった。5人は嬉しくて飛び上がった。

3.この時お釈迦様は5人のために
『<コーンダニャ>よ、「如来」が体得したものである法に四聖諦があるのだが、苦聖諦・苦集聖諦・苦滅聖諦・苦滅道聖諦がそれなのだ。
「苦聖諦」というのは、全ての生命の生の存在はすなわち「苦」の存在なのだ。生まれて、年とり、病気になって死ぬことが「苦」だ、愛する人と別れることが「苦」だ、怨むような目に遭うことが「苦」だ、求めるものが思うままにならないことが「苦」だ、あわせて精神と肉体でなるこの身命自体が「苦」の存在なのだ。これを「苦聖諦」と言うのだ。
「苦集聖諦」というのは、苦の結果をもっている原因のことを言うのだが、すべての生命たちが無明から「私」という考え[我想]をおこして、それが貪・瞋・痴の「行業」を行動し、その「行業」から生まれ死ぬことの終わりない流れに入っていくようになるのだ。
「苦滅聖諦」というのは、「苦」の原因である「無明」・「行業」を切り捨てて「苦」から抜け出し、「解脱」の結果を受けることになるのだ。

「苦滅道聖諦」とは、「苦」がない「解脱」に到達する道なのでその道には正しく見るもの[正見]・正しく考えること[正念]などの8種類の正道があるのだ。

<コーンダニャ>よ、この聖人の悟りで当然に知っていること、当然切り捨てるもの、当然に授かるもの、当然に磨くものがあるので、「苦聖諦」は当然に知ることであるのだ。「苦集聖諦」を当然断ち切ることであり、「苦滅聖諦」を当然に授かることであり、「苦滅道聖諦」は当然にそれを磨いていくことなのだ。

 それなのでこれが「苦」ということを知り、その原因である「集」を断ち切り、「滅」を授かるために「道」を磨くことなのだ。

4.もし人がこの「四聖諦」を知らなければ、解脱を授かる道はないのだ。

「聖諦」という言葉は、真実で間違いのない意味なので、「苦」は必ずや生の存在で、「集」は必ずやこの「苦」の原因であり、「滅」は必ずや「苦」をなくす結果で、「道」は必ずやこの「滅」に到達する道なのだ。』
この説法を聞いて5人はすぐにその悟りを授かり法眼が清らかになり、悟りを理解した聖人になりました。

 この5人の弟子達はお釈迦様に敬礼して、お釈迦様の弟子となり、修行をすることをお願いしました。その時にお釈迦様はその人たちの頭を剃って法服を着せて「サマナ」とさせました。これが「僧伽(サンガ)」のはじまりでした。

5.<パーラナシー>と<カンガー>川の間の向こう岸には<マガタ>国があった。川のあちら側には有名な長者がいた。その長者の息子<ヤシャ>が夜に眠りから覚めた時に川のこちら側で<鹿野苑>の森に神秘の光があるのを見て、川を渡りそこを探して来た。そこには神々しい道人が座っていた。その人はとても嬉しく頭を地面に下げてお辞儀をして拝んだ。そして

『神々しい聖者様よ、私に悟りを教えてください。』
お釈迦様はその人が聡明で善根が深くあることを観察してその人のために『よく来たな。善良な男よ、私はお前に説法をしてあげるので、よく聞きなさい。

 お前の体とお前の考える心は元来、空なのだ。私という主体はないのだ。代わる代わる変化して無常なものだ、つまりは苦の存在なのだ。」

<ヤシャ>はその説法を聞いて心が開いて目が明るくなり悟りを得た。そして彼も家を出て修行を願い、頭を剃って「サマナ(お坊さん)」となった。

6.夜の間にその息子の行方を失った<ヤシャ>の父は、息子を探しにあちこちいっていたのだが、<鹿野苑>に着くと、すでに家を出た「サマナ」の姿になった<ヤシャ>を発見した。彼はお釈迦様に<ヤシャ>はただひとりの血筋である一人息子なのですといった。お釈迦様は彼のために人の存在というのは「苦」であり、「空」で、「無常・無我」なのに、これは悟って、真実の悟りを磨くことだけが本当のことであるとお話されました。長者はその人格と説法に感化されお釈迦様に帰依して「ウパーサカ(男信者)」となりました。そして彼はお釈迦様と5人の比丘たちに供養をしました。

7.<ヤシャ>比丘の友達50人はお釈迦様が現れて、さらに<ヤシャ>が出家して「サマナ」になった話を聞いて、<鹿野苑>に走って行った。ここでお釈迦様のその光を出す色身と神々しい威徳に感化され、さらに「識心」と「色身」でできている生命体は「苦」で「空」で「無常・無我」であること、それから「四聖諦」の法を聞いて、みんなが同じ様に家を出て悟りを磨くことをお願いし、髪を剃って「サマナ」になりました。ここで5人の比丘と<ヤシャ>比丘とおよび彼らについて出家した50人を合わせて56人の比丘になった。

 

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