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天地八陽神呪経(八陽経) 〜2〜

 

 善なる男よ、この六感覚の真理を理解した人々が、常に真実の言葉を喋り、真実の法がずっと続いていれば、聖人の悟りを開く。六感覚の幻想にとらわれたまま悪い言葉をしゃべり、悪い法がずっと続けば、人々は地獄に落ちる。

 善なる男よ、善と悪の道理を間違いなく分別し、善を信じなければいけない。
善なる男よ、人の身体と心は仏法(正しい悟り)と真理を入れる器なので、十二部からなる大きな経典(十二因縁から生じた経典)と信じればよい。遥か昔から現在まで、人々は誰一人としてこの経典を読んでいない。しかし、毛一本すら触れていない状態で如来蔵経 の真意を理解した人は、悟りを開き、すべての苦労が止む。だが、声聞や愚か者達には理解できない。

 善なる男よ、八陽経を唱え、暗記し、奥深い真理を開いたら、その身体と心がすぐに仏法を入れる器だと理解できる。しかし、もしも酩酊したままでいたら、心自身が真理の根本であると知らずに、あちこちにさまよった末、暗い地獄に落ちて一生苦痛がつづく世界にはまってしまい、仏法の名前すらわからなくなる。

 ある時代、500人の天人達が仏様の説法を聞いて、心の目が明るく開いてしまった。天人達はとても喜び、すぐさまこの上なく心が明るくなり、悟りを開いた」

 天(宇宙)は陽、地球は陰。太陽は陽、月は陰。火は陽、水は陰。男は陽、女は陰。森羅万象の中、天国と大地が持てる力をすべて合わせて、植物が生まれる。太陽と月が動きながら回転して、季節が生まれる。こうして、時間と日、季節が間違いなく生まれる。火と水が交わってあらゆる生命たちが成長し、人間も含むすべての男と女が交わって子どもをつくる。この世界のすべては、天(宇宙)と地球の愛から生まれた自然の一員であり、それが自然の法則になっている。

 その後、無辺身(むへんしん)菩薩様が席から立ちあがって、お釈迦様に聞きました。
「お釈迦様よ、なぜこの経典を天地八陽経と呼ぶのでしょうか。お釈迦様よ、願わくば、その理由を教えてください。今日ここに集まった皆が理解できるように、心にある疑問が解かれるように、急いでこの内容に精通できるように、お釈迦様が説法する八陽経についての疑問がすべてなくなるようにお話しください」。

 お釈迦様は答えました。
「よしよし、善なる男よ。あなたたち皆、しっかりと聞きなさい。これから私があなたたちのため、天地八陽経の意味を整理しながら説明しよう。天(宇宙)は陽、地は陰。八は分別、陽は『はっきりわかる』という意味だ」。

 さて、ここでお釈迦様のいう八の意味について、その内容を先に解説します。
八とは、私たちの誰もが持っている八識のことです。いつも様々な限りない色を見ている目、いつも様々な限りない音を聞いている耳、いつも様々な限りない香をかいでいる鼻、いつも様々な味をみる舌、いつも様々な限りない触感を得ている身体(皮膚)、いつも様々な限りない事柄を感じる心(意識)。ここまでで六つの識があるとされていましたが、私たちの認識はこれらだけでは説明できません。あと二つ、末那(まな)識と阿頼耶(あらや)識があります。
私たちが死ねば、六つの識は自然に還され消えてなくなります。しかし、肉体が死んでも魂は滅びず、前世から来世へと運ばれる宿命の詳細なデータを保存しているのは魂です。魂は、阿頼耶識という八番目の識です。阿頼耶識は肉体を維持する業と輪廻の種(心種子(しんしゅうじ))を保存する部分です。目に見える器官ではありませんが、生きている間この器官が失われたり、中身が空になったりすることはありません。阿頼耶識は生命を持つ存在の根本的な識であり、ここから出た種から芽が出て、茎や葉が生え、花が咲き、実り、枯れ、また種となって輪廻していきます。

 阿頼耶識に保存されている業(=カルマ)は、末那識という七番目の識から出てきます。末那識はいつも阿頼耶識について回り、根本的な煩悩の種をふりまきます。その煩悩によって、私たちは無意識のうちに、無知(我癡(がち))、執着(我見)、驕慢(我慢)、愛着(我愛)を持って行動します。末那識は常にわがままで自分勝手で、エゴイスティックです。これは八識の作用に関する仏教の考え方です。

 八識を大きく二分すると、「前五識(眼、耳、鼻、舌、身)」と「後三識(意識、末那識、阿頼耶識)」に分けられます。前五識を通じて外から入ってきた情報や現象を処理する部分が、後三識のうちの意識です。そして、意識は末那識の作用によって「私」に執着し、「私」を中心として、「私」にとって有益か有益でないかを判断してあらゆるものごとを処理しています。

 また、心とは、前五識を通じて外部から入ってきた情報を、末那識にコントロールされた意識が処理する際にあらわれる、感情や思考の動きを指します。私たちの心は、入力される外部情報によって常に変化します。肉体を持った私たちには感知できない阿頼耶識も、意識と末那識に影響を与えています。

 肉体が死んで自然に還ると、八識のうち肉体に由来している前五識と、後三識のうちの意識と末那識は消えてなくなります。しかし、阿頼耶識だけは残り、肉体があったときにつくられた種(行為、行動、業、情報)を記録し、データとして保管したまま他の縁と結びついて、別の新しい肉体を受け取ります。

 阿頼耶識には、私たちが体験してきたあらゆる人生のデータが塵一つもらさず記録されています。それは、自然の神様が持っている神秘の鏡と同じ原理であり、神秘の鏡方式の人間用ミニ鏡と考えてもよいでしょう。あるいは阿頼耶識は、私たち一人ひとりの人生を記録する専用のエンジェル(天人)であるとも考えられます。
阿頼耶識は末那識がつくり出した善悪を含むすべての情報を記録・保管します。阿頼耶識の持つこのような性質を「無記」といいます。記録・保管する時に、その情報が善か悪かを決して判断せず、価値中立性を保っているのです。また、阿頼耶識の無記性は「異熟(いじゅく)」とも言われます。異熟とは、善悪の行為を原因としながら、それとは異なる(善でも悪でもない)結果を熟するという意味です。

 煩悩にとらわれず、なんの感情も起こさず、つねに中立で冷静沈着なまま、大河の流れのように静寂な阿頼耶識の性質を「無覆(むふく)無記」というのに対し、煩悩で心が覆われているため、いつも不安定で騒々しく粗雑な末那識の性質を「有覆無記」といいます。また、大乗仏教では九番目の識として「阿摩羅(あまら)識」が存在するといわれています。阿摩羅とは「汚れがなく清浄である」という意味で、無垢識または白浄識ともいわれます。


読めば悟りを開く経典。「衆生は皆、自分の中に如来を蔵(宿)している」という意味。

 

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