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悟りを開く金剛般若波羅蜜経 〜2〜

 

第七 得ることも説くこともない

「須菩提よ、お前はどのような考えだろうか。如来が阿耨多羅三藐三菩提を得たのだろうか。または如来が話すところの法というのはあるのだろうか。」
須菩提が言いました。
「私が知っている如来がお話される意味は決められた真理があって、そのことを阿耨多羅三藐三菩提として言われる事はなく、さらに決められた内容のない真理を如来がお話してくださったということなのです。
なぜかといえば、如来が説法した真理はもっていることもできず、話すこともできず、真理もなく、真理でないこともないからなのです。
なぜそうなのかと言えば、あらゆるすべての解脱した賢人や聖人は、相手の世界を超えた無為の絶大法(はっきりとした法)がある中で、はっきりとした区別があるからなのです。」

第八 あらゆることの真理から出てくる

「須菩提よ、お前はどのように考えるのだろうか。たとえある人が三千大千世界にいっぱいの七宝を持って、あまねく布施をしたならば、この人が得る福徳はどれくらい多くあるだろうか。」
須菩提が言われた。
「とてもたくさんあるでしょう。世尊様よ、なぜならば、この福徳は本質的な心の福徳性ではないからなので、そのため、如来様は福徳がたくさんだと言われました。」
「万一ある人がこの経典の中で四つの句だけでも貰い受けて、人のために話したならば、その福が他の福徳よりも、もっと秀でている事になるのだ。
なぜならば、須菩提よ、あらゆる仏様の阿耨多羅三藐三菩提がみなこの経典から始まっているからなのだ。須菩提よ、いわゆる仏法とはすなわち仏法ではないのだ。


第九 絶対の法は存在しないのだ

「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。須陀ウォン(しゅだうぉん:聖人の流れに入った段階のこと)として考える事は『私が須陀ウォン果を得たり』というのだろうか」
須菩提は言いました。
「いいえ。世尊様よ、なぜならば、須陀ウォンは名前が聖人の流れ(聖流)に入っているという言葉になりますが、実は流れに入っていることはなく、姿、声、におい、味、触感だったり、あるいはある真理を得たりすることもなく、ただ名前を須陀ウォンというだけのことなのです。」
「須菩提よ、お前はどのように考えているのだろうか。斯陀含(しだごん:一度解脱して、行ったり来たりできる段階)として考えることは『私が斯陀含果を得たり』というだろうか。」
須菩提が言いました。
「いいえ。世尊様よ、なぜならば、斯陀含は名前が『一度行って帰ってくる(一往来)』と言う言葉であるのですが、実は行って帰ってくるという考えのないことを斯陀含と名付けられただけだからです。」
「須菩提よ、お前はどのような考えであろうか。阿那含(あなごん)が考えた事は『私が阿那含果を得たり』というのだろうか。」
須菩提は言いました。
「いいえ。世尊様よ、なぜならば、阿那含は名前が〈来ることのない〉ということなのですが、実は来ることのない気持ちがないことを阿那含と名付けられているだけだからです。」
「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。阿羅漢として考える事で『私が阿羅漢道を得たり』と言うのだろうか」

須菩提は言いました。
「いいえ。世尊様よ、なぜならば、実に『このことが真理だという意味をなさないこと』(実無有法)を名前とし、それを阿羅漢というだけだからです。世尊様よ、万一、阿羅漢として考える事で「私が阿羅漢道を得たり」と言ったとしたら、この人は必ず〈私という考え〉・〈他人という考え〉・〈生命たちという考え〉・〈長生きするという考え〉に執着することになるのです。
世尊様よ、仏様が私は『争いのない三昧(無諍三昧むしょうざんまい)を得る人の間で最高(根本)の人だ』と言われたのですが、これは欲をなくしている一番最高の阿羅漢であるという意味の言葉であります。世尊様よ、私は欲をなくしている阿羅漢ということは考えもしていないのです。世尊様よ、私がたとえ『私が阿羅漢道を得た』と考えたならば、世尊様は必ず須菩提に『阿蘭那行(あらんなぎょう:阿羅漢の行動)をちゃんと実践している人』という言葉を私に言わなかっただろうと思うのですが、須菩提が実に阿蘭那行を実践する考えがないので『須菩提は阿蘭那行を実行する人』として名付けてくれたのです。」

第十七 ついに私はないのだ

その時、須菩提がお釈迦様へ申し上げました。
「世尊様よ、善の男・善の女で阿耨多羅三藐三菩提の心を起こす者は当然に悟る心をどのようにとどめて、煩悩の心をどのように克服しなければならないのでしょうか」
お釈迦様は須菩提に話されました。
「例えば、善の男・善の女で阿耨多羅三藐三菩提の心を起こした者は当然にこのように心を表すことになるので、『私が十分に一切の人々を済度させるのだ。そして一切の人々をすべて済度するのだが、実は一人として済度する者はいないのだ』と言った。

須菩提よ、なぜならば、もし菩薩が〈私という考え〉〈他人という考え〉・〈生命たちという考え〉・〈長生きするという考え〉があるならば、それはすなわち菩薩でないのだから。須菩提よ、その理由は実はどんな真理もない境地で阿耨多羅三藐三菩提を起こしたことになるからなのだ。」
「須菩提よ、お前はどう思うのだろうか、如来は燃燈仏様のいらっしゃる場所で授かるくらいの真理があって阿耨多羅三藐三菩提を授かったのだろうか」
「いいえ。世尊様よ、私がお釈迦様のおっしゃった意味を理解したことではお釈迦様が燃燈仏様の場所にいらっしゃる時に、とある真理があって、阿耨多羅三藐三菩提を授かることはなかったのです。」

お釈迦様はおっしゃいました。
「そうだ須菩提よ、実にどんな真理もない境地で如来が阿耨多羅三藐三菩提を授かることになったのだ。
須菩提よ、たとえとある真理があったとして、如来が阿耨多羅三藐三菩提を授かったならば、燃燈仏様から私に『お前が次の世で当たり前に如来(仏陀)となり、釈迦牟尼(しゃかむに)と名付けられるのだ』という授記はくださらなかったのだ。実にとある真理もない境地で阿耨多羅三藐三菩提を授かったことで燃燈仏様から私に授記をいただき、おっしゃられたことは『お前がこの次の世界で当然のごとく如来となり、その号名を釈迦牟尼としなさい』とおっしゃったのだ。

  なぜならば、如来という言葉は「すべての法が如如(よよ)する」のと同じ意味なのだ。そのために例えばある人が『如来が阿耨多羅三藐三菩提を授かった』と言ったとしても、須菩提よ、仏陀は実にどんな真理もない境地で阿耨多羅三藐三菩提を授かることになるのだ。須菩提よ、如来が授かる阿耨多羅三藐三菩提の中には真実でたくましいこともなく、かといって虚しい事もないのだ。
  そのせいで如来が話すことは『世界で一切の法はすべてこの仏法なのだ』というのだ。須菩提よ、いわゆる一切の法という言葉はすなわち一切の法ではないので、それゆえにその名前が一切の法というだけなのだ。須菩提よ。比べると人の身体はとても大きくなることと同じようなものだ」

須菩提が申し上げました。
「世尊様よ、如来様がおっしゃる『人の身体がとても大きいこと』というのも実は大きい身体ではないので、その名前が大きい身体だというだけなのです。」
「須菩提よ、菩薩もさらに同じ様に言うだろう『私は限りなくたくさんの人々を済度したのだ』と言う者がいればこの人はすなわち菩薩と名付けることができないのだ。なぜそうかといえば、須菩提よ、実にどんな真理も心にもたない者を菩薩と名付けるからなのだ。そのために如来が言うことは『あらゆる種類の法が〈私〉もなく、〈他人〉もなく、〈生命たち〉もなく、〈長生きすること〉もないのだ』と言うのだ。
須菩提よ、もし菩薩の言う『私が当然、仏国土を荘厳にするのだ』と言うならば、これは菩薩とは名付けられないのだ。なぜならば如来が話す仏国土の荘厳とはすなわち荘厳ではなく、その名前が荘厳というだけだからなのだ。

須菩提よ、もし菩薩が〈私がない真理〉に精通していたならば、如来はこの人を正しい菩薩摩訶薩と名付けるのだ」

 

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