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悟りを開く金剛般若波羅蜜経 〜3〜

 

第十八 一体を一つとして見なさい

「須菩提よ、お前はどう思うだろうか。如来には肉眼(にくげん:人間に備わっている眼)があるのだろうか。」
「そうですね。世尊様よ、如来様は肉眼をもっていらっしゃいます。」
「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。如来は天眼(てんげん:すべてを見通すことのできる眼)をもっているだろうか」
「そうですね。世尊様よ、如来様は天眼をもっていらっしゃいます。」
「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。如来が慧眼(えげん:一切の事物を空であると見通す智慧の目)をもっているだろうか」
「そうですね、世尊様よ。如来様は慧眼をもっていらっしゃいます。」
「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。如来は法眼(ほうげん:諸法を見る智慧の眼)をもっているだろうか」
「そうですね。世尊様よ、如来様は法眼をお持ちでいらっしゃいます。」
「須菩提よ、お前はどう思うだろうか。如来が仏眼(ぶつげん:一切を見通す、悟りを開いた者の眼。すべての生命を仏としてみる眼)をもっているだろうか」
「そうですね。世尊様よ、如来様は仏眼を持っていらっしゃいます。」
「須菩提よ、お前はどう思うだろうか。あの恒河の中にあまたの砂のことを如来が話したことがあるだろうか」
「そうですね。世尊様よ。如来様が恒河の砂のことを話されました。」
「須菩提よ、お前はどのように考えるだろうか。あの一つの恒河の中にある砂の数と同じくらいたくさんの恒河がさらにあって、このすべての恒河の砂と同じ数の仏世界があれば、その世界を誠としてたくさんになっていくのだろうか。」
「とてもたくさんでしょう。世尊様よ。」
お釈迦様は須菩提におっしゃいました。
「あのたくさんの世界の中にあるすべての人々の様々な心を如来が知っているのだ。なぜそうかというと、如来が話すすべての心とは全部このことは心ではなく、その名前が心というだけであることだからなのだ。
その理由は須菩提よ、過ぎていった心も得ることができず、現在の心も得ることができなくて、未来の心も得ることができないからなのだ。」


第十九 法界をあまねく教えなさい

「須菩提よ、お前はどう思うか。例えば、ある人が三千大千世界にいっぱいに満ちた七つの宝をもって、広く布施をすれば、この人がこの因縁として授かった福はたくさんになるだろう。」
「そのとおりです、世尊様よ。この人はこの因縁でとても多くの福を授かります」
「須菩提よ、たとえ福徳が本当にあるならば、如来は福徳をたくさん授かるとは言わないことになるので、福徳が本来はなく、如来はたくさんの福を授かると言われるのだ。」

 それなので、このようにお釈迦様が説法しながら優しく教えたことは、心が留まる執着を失くし、相手の心の世界を越えて、何一つ欲張らず、「私という考えがなく」、「他人という考えもなく」、「衆生だという考えもなく」、「長生きするんだという考えもなく」して、すべてが名前だけ、名付けられたので、何一つ惜しまず、「私がない」という真理を悟れば、それが本当の菩薩摩訶薩と呼ばれるのです。本当の真理は、「無である、空(くう)である」ということなのです。

 なので、涅槃になっているお釈迦様は、尊い姿や神々しい姿では、決して世界に現れないのです。苦しい生命たちが善行していても、あまりにも人生が辛いので、どうしても助けを求めるため、この上ない心を込めて、一生懸命念じれば、お釈迦様は、宇宙からいつも六道を透視しているので、その苦しくて悲しい声を聞いて、すぐに通じ、その環境、状況にあわせて、菩薩、お坊さん、神様、政治家、医者、運転手、優しい教員、作家、画家、農業、販売員、調理師清掃員、または、山、海、太陽、月、風、火、水、動物、鳥、魚、植物、野菜、お米、果物、本など様々なものに化身して現れ、必ず、救済しに来ます。それなので、尊いお釈迦様と信仰して出会うためには、天人の神々しい姿や、素敵な声を探しても、永遠に見つからないのです。それなので、世の中で、私たちを優しく導いてくれる師匠であるお釈迦様の本当の姿は、正しい真理であるお釈迦様の説法なのです。また、お釈迦様は、おっしゃいました。


「第二十六 法身は存在がないのだ」

「もし、姿として私を見ようとしたり、音声として私を探そうとしたりすれば、この二つはすなわち邪道をなす者だ。如来を永遠に見ることはできないのだ。」

 

第三十二 応化身は真のことではない

「須菩提よ、たとえある人が限りない阿僧祗の世界にいっぱいに満たされた七つの宝をもって広く布施をしたとしても、もし菩薩心をおこした善の男・善の女がいて、この経典を授かって、乃至は四句偈でも授かり受けて読み、覚えて他の人のために演説してあげれば、その福があの福よりさらに秀でる事になるのだ。どのようにすることが人のために演説することになるか。考えと現状についていかずに、ありのままに(如如)動かないでいることなのだ。その理由は次のようになる。

一切の現状界のすべての生命の法は夢であり、幻であり、水の泡であり、影のようで、露のようで、雷のようなので、当然、このように見えるのだ。」

 

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